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生きるのをがんばりたい

緊急入院していた

はじめに

僕は事業者に雇用されている労働者なので、労働安全衛生法に則って毎年の健康診断が実施されている。

去年の12月に健康診断を受けて、1月に結果が返ってきた。去年は親族が病気で亡くなったことを受けて検査項目を追加していたので、少しドキドキしながら結果を確認した。結果は追加の検査項目とは全然関係のない、心電図の要精密検査だった。

診療所で検査をしたところ大学病院への紹介状が書かれ、大学病院で検査をしたところ緊急入院となった。入院しながら検査を続け、最終的に手術をして持病が一つ増えた。

入院までの経緯

健康診断で心電図の要精密検査の結果が返ってきてから、ちょうど健康意識が高かったこともあってすぐに近所の循環器内科の診療所を受診した。

医師には健康診断の心電図検査で要精密検査になったこと、理由は連発性心室性期外収縮を認めるためであることを伝えた。医師によると心室性期外収縮というのは周期的な拍動でない心臓の収縮が起こることで、それが1発あるいは2発までの連続であれば問題ないが、3発以上になると命に関わる症状の可能性が高いとのことだった。連発性心室性期外収縮という文言だけでは2発なのか3発以上なのか分からないので、詳しい検査が必要になるとのことだった。期外収縮はいつ起こるか分からないので、24時間の心電図を測定するホルター心電図という検査で見つけることになる。また、健康診断を受けたクリニックから実際の心電図も取り寄せることにした。

健康診断を受けたクリニックからは数日中に心電図の取り寄せができたので、それを持って二度目の診察を受けた。診療所に向かう途中に自分で心電図を眺めていて察しはついていたが、健康診断で見つかったのは3発の心室性期外収縮ということが分かった。つまり、命に関わる症状の可能性が高くなった。ここで心室性期外収縮を引き起こす病気について詳しく教えてもらった。一つ目は狭心症など、心臓の血管に異常がある病気。二つ目は心筋症など、心臓の筋肉に異常がある病気。三つ目は、それ以外の不明な原因による病気。これらの病気の特定をするためには更に検査が必要になり、また、三つ目であれば命に関わることは少ない。たぶん大学病院で検査することになるかな〜という話がここであがった。

何にせよまずは詳しい心電図が必要ということで、予定通りホルター心電図検査が実施された。24時間と聞いて1日入院でもするのか?と思っていたが、日常生活での心電図を計測する必要があるため、手のひらほどの機器を取り付けて普段通りに過ごせばいいらしい。機器を取り付けた翌日、24時間の計測が終了したことを確認して機器が回収された。記録された心電図を医師が確認して結果を伝えるため、次の診察は1週間後になった。

ところがホルター心電図検査の機器を返却した夜に、診療所から電話があった。ちょうど電話がとれなかったため翌日にかけ直したところ、検査結果について伝えたいことがあるのでなるべく早めに受診してほしい、という話だった。医者からそんな電話かかってくることある??というか夜の20時半(前日とれなかった電話は20時半にかかってきた)にまだ仕事してるのすごいな…などと妙にずれたことを考えたのを覚えている。早めにということなので、翌日に診察の予約を入れた。

三度目の診察ではホルター心電図検査の結果を教えてもらった。3発どころか十数発の連発性心室性期外収縮が認められたため、明日には紹介状を用意するので大学病院を受診してほしい、とのことだった。ただ、不整脈に強く医師もよく知っている大学病院か、無難に一番近い大学病院か、どこを紹介するのか少し悩んでいるようだった。悩むほど病院があるなんてやっぱ都会(東京都のことです)は田舎(福島県のことです)とはちげえな〜と思った。日本でもトップクラスに不整脈に強い大学病院にかかるような重篤な症状ではなく、大学病院であればどこでもしっかり治療してくれるとのことだったので、通いやすい一番近くの大学病院への紹介状を用意してもらった。

診察の予定の前に医者が電話をくれるほど緊急なんだ、と理解したので、翌日の紹介状をもらったその足で大学病院を受診した。初診は午前中に受付をしなければならなかったが、頑張って起きた。

大学病院ではまず医師からの診察を受けた。これまでの検査結果を踏まえて、血液検査と心エコー検査をすることになった。医師からは「急ぎで検査を入れましたので、すぐ向かってくださいね」と言われた。この辺りから、急ぎ??大丈夫??と、本格的な不安を感じ始めた。病院には科ごとの受付があり、検査もそれぞれ受付が必要だった。血液検査の受付は機械に診察券を読み取らせるだけで完了し、一蘭の味集中カウンターみたいなところで血を抜かれた。心エコー検査の受付は人間が行っており、検査室で心臓のあたりをグリグリされた。検査が完了したら再度循環器内科で受付をし、医師の診察を受けた。「うーーん、このまま緊急入院ですね!問題ないですか?」と言われ、「え、あ、はい。」と答えたところ、そのまま緊急入院となった。

入院中の生活

まず最初に COVID-19 の検査をし、数時間後に陰性の結果が出たことを確認してから入院処理が始まった。

病室まで移動し、看護師から入院の手続きや入院中の生活についての説明を受けた。いくつかの書類にサインをした後、入院に必要なものを揃えることにした。なにせちょっと病院に行って帰ってくるつもりの荷物しか持ってきていないため、病室で提供されるもの以外の生活用品がないのだ。入院病棟内にはコンビニがあり、そこで必要なものを買うことができた。ただ、これは退院するまでずっとそうだったが、不整脈で失神の恐れがあるため、病室のある階の外に出るときには必ず看護師や看護助手の付添で車椅子での移動をしなければならなかった。人に車椅子を押してもらって買い物をすることには少し申し訳なさを感じた。とりあえず生活ができるようになったことで、入院生活が始まった。

病室は6時に灯りがつき、22時に消灯する。朝と夕に体温、血圧、血中酸素濃度を測定する。食事は8時半、12時半、18時半の3回で、それぞれ時間になったらベッドまで運ばれてくる。入浴は看護師に申請することで30分間の利用ができるシャワー室を利用する。病室は4人部屋だがベッドを囲むようにカーテンで仕切りがされており、プライバシーは確保されている。前述の通り失神の恐れがあるため、トイレに行くときはナースコールを押して看護師に送り迎えをしてもらう。基本的な生活はこのようなものだった。検査の予定があれば朝の測定のときに看護師がそれを伝えてくれて、時間になったら検査室まで看護助手が送り迎えをしてくれた。それ以外はおおむねベッドの上で過ごしていた。眠っているか、本を読むか、ゲームやインターネットをしていた。たまに病室の近くにある、患者が利用できる休憩スペースにも行っていた。休憩スペースにはコンビニの移動販売もやってくるので、おやつの調達などはそこでしていた。

入院生活はかなり快適だった。朝が早すぎて軽い吐き気がすることが多かったが、検査以外にはやることもないので寝ていれば問題なかった。外ではちょうど大寒波がきていたらしいが、病棟はずっと適温で、長袖のパジャマがちょうどいいくらいの過ごしやすさで、空気の乾燥も感じなかった。食事も毎日食べるものとしては十分に美味しかったし、アレルギー以外にも食べられないものがあれば反映してくれた。病室の他の患者の存在にストレスを感じないか心配だったが、入院患者はだいたい病気の高齢者なので、動かないし騒がないしだいたい眠っており、思ったより静かで穏やかなに過ごすことができた。ただ、いびきがめちゃくちゃうるさいことだけは辛かった。また、これは入院生活で一番便利に思ったことだが、普段飲んでいる薬や必要な薬はすぐに処方された。病院なので当たり前だが、相談すれば処方薬がポンポン出てくるのは少し面白かった。いい機会なのでマイスリーを処方してもらったが、5mg錠を半量にしても吐き気がしたのですぐに服用を中止してベルソムラに戻った。

とにかく仕事もせずに日がな一日ベッドに横になっているだけの生活は良かった。命に関わる病気かもしれないことを除けば、のんびりできていいなと思っていた。あまりに暇すぎて積んでいた本を3冊くらい消化できた。自宅では色々なことに気を取られてしまうし、生活するための作業もたくさんある。それらがなければ本を最後まで読むくらいには集中力が保てるんだな〜という経験ができたのは良かった。

検査と診断

入院した翌日くらいに主治医がやってきた。話しぶりや印象が工学部にいそうな感じで、なんだか親近感が湧くいい先生だなと思った。主治医は現状で分かっていることや今後の方針を話してくれた。診療所の医師から聞いた通り、連発性心室性期外収縮が認められる場合には心臓の血管や筋肉に異常がないかを調べることになる。それぞれ冠動脈 CT 検査、心臓 MRI 検査で調べることができる。これらの検査で異常がなければ原因不明ということになり、命の危険は低くなる。原因不明で大丈夫なのか?とは思ったが、原因を特定するうれしさがないのだろうと思って勝手に納得した。冠動脈 CT 検査も心臓 MRI 検査も少し待たなければいけないので、だいたい2週間くらいの入院になる予定とのことだった。長引きそうですみません、と謝られたが、生命維持のためという最も正当な理由で2週間も休めるなんてうれしいです、と返答した。

冠動脈 CT 検査と心臓 MRI 検査を待っている間にも、色々な検査をした。さまざまな心電図検査が主だったが、特によく覚えているのが頸動脈エコー検査だ。首を機器でグリグリされるのが非常に気持ち悪かった。あまりの気持ち悪さに静かに泣いた。検査後にぐったりしている僕の様子を見て、技師が「私もこの検査されるのは嫌いなんですよね」と励ましてくれて、ああ技師も嫌いなくらい大変なんだな…と思うと落ち着くことができた。

入院の5日目に冠動脈 CT 検査をした。冠動脈 CT 検査は造影剤を点滴して行うが、その際にアレルギー反応が出ることが分かった。薬物でのアレルギーは初めてだったので、実在するんだな〜と感心した。幸いくしゃみがでる程度で、大事には至らなかった。その日の夜に主治医がやってきて、狭心症の可能性が無いことを伝えてくれた。

心臓 MRI 検査だが、検査に空きができたとかで予定よりも早く実施された。病棟の休憩スペースでクリームパンを買ってかばんに詰めていたところに医師がやってきて、「今から検査できるみたいなので行きましょう」と言われてそのまま連れて行かれた。心臓 MRI 検査でも造影剤を点滴するのだが、前回アレルギー反応が出たために病室で抗アレルギー薬の点滴を行ってから検査に行くことになった。僕はとにかく注射が苦手なので、点滴の時間が増えたことが辛かった。MRI の機械の閉塞感や作動音、結構長時間の息を止める指示もあり、頸動脈エコーの次に辛い検査だった。検査の翌日に主治医がやってきて、心筋症の可能性が無いことを伝えてくれた。

これらの検査の結果から、特発性非持続性心室頻拍という診断となった。特発性が原因不明であること、非持続性が30秒以内に期外収縮が治まること、心室頻拍が心室を原因とする期外収縮が3発以上発生すること、を表している。特発性・非持続性であれば生命予後は非常に良いとのことで、めでたく命の危機は去ることになった。入院当初は埋込み型除細動器の取り付けも視野に入れているとの話を聞いて覚悟はしていたが、一番マシなところに落ち着いてよかった。頻脈を抑える薬をしばらく服用して、様子を見て退院しましょう、ということになった。金曜日のことだった。

手術

診断がついたのが金曜日で、土日は病院が休みなので特に何もなく過ごす予定だった。ところが土曜日の夜に主治医がやってきて、改めて心電図を眺めていて期外収縮の様子がおかしいことに気づいたので追加で心臓カテーテル検査の実施を検討している、という話を聞かされた。様子がおかしいというのは、特発性心室頻拍というのは心臓の原因不明の異常箇所から予期せぬ信号が発せられることで期外収縮が発生しているのだが、通常はその異常箇所が一つであるために期外収縮の形状も一種類であるはずが、僕の心電図には三種類の期外収縮があるとのことだった。つまり、僕の心臓には通常一箇所であるはずの原因不明の異常箇所が三箇所あるということになる。主治医も見たことがない症例らしかったが、そんなに珍しいものを見せられてよかったし、これで先生の何かの成果になったらうれしいな、と思った。

「見たことがない症例」という事実の面白さに楽しくなってしまったが、心臓カテーテル検査というのがちょっと点滴して写真を撮るくらいでは済まない検査だった。足の付け根の血管に穴をあけてカテーテルを挿入し、心臓まで進めて血管の様子を観察するのだ。結構びっくりしたが、「全身麻酔ですか?」と聞いたところ「正確には麻酔とは違って鎮静剤というものなんですが、そういう認識で問題ないです。」とのことだったので、じゃあ寝てるだけだしまあいいか、と思った。「週明けに上司と相談して、具体的なことが決まったらお伝えしますね。」という、なんだか仕事みたいなことを言われた。いや、医師は職業なので仕事なんだけど、病院で言われたことがない文言が少し面白かった。

主治医がやってきたのは週明けの夜で、心臓カテーテル検査をするならついでにカテーテルアブレーション治療もやろうという提案があったので、検査のついでに手術をしようと思うがどうか?と伝えられた。というのも、カテーテルアブレーション治療というのは、足の付根の血管に穴を空けてカテーテルを挿入し、心臓まで進めて異常箇所を焼き切る手術らしい。確かに心臓カテーテル検査と途中まで同じ作業だし、ついでやれそうなことは理解できた。手術の有無で何か変わることがありますか?と聞いたところ、血管に開ける穴が3つから4つに増えます、とのことだった。誤差じゃん、と思ったので、手術を了承した。ただ、点滴についての心配があったので相談をした。実は同じ病室の患者がちょうどカテーテルアブレーション治療を行っており、手術前後の病室での様子を知っていたのだが、なんと前日から点滴の針を刺しているのを見てしまったのだ。点滴の針を刺したまま眠ることだけがどうしても怖くて、あれがどうにかなるかという相談をした。それなら起きてすぐに点滴の針を刺しましょうか、ということになった。相談聞いてくれるんだ、と思って安心した。手術と聞いて緊張もあったが、よく考えてみれば僕がやることといえば鎮静剤で眠ることだけで手術をがんばるのは先生なので、気にするべきことといえば注射の針くらいだな、と思った。

手術は3日後に予定通り行われた。相談通りに点滴の針は当日の朝に刺してもらった。看護師がやるのかと思いきや、たまに診察に来てくれていた医師がやってきた。注射の針が苦手ということを伝えると、採血で刺すようなところよりも端の、皮膚が少し厚いところで血管を探して針を刺してくれた。おかげで思ったより痛みも不快感もなかったので、いい先生だな、と思った。手術はいわゆる手術室ではなく、カテーテル室という部屋で実施された。部屋の様子もドラマで見るような手術室とは全く異なり、ディスプレイや機械がたくさんあって電気工学科の実験室を思い出した。「何かされる感」にはさすがに緊張していたが、鎮静剤を投与されるまでの作業がかなりテキパキしており、すぐに意識がなくなった。目が覚めたら病室のベッドに寝かされており、主治医がやってきて手術が無事に完了したことを教えてくれた。ただ、事前に説明されていたことだが、心臓の異常箇所のうち一つが発生させる期外収縮は発生頻度が低いことが分かっており、これは処置できなかったらしい。残りの二箇所は処置できたので、退院後にまた様子を確認してみましょう、となった。

これは余談だが、手術後には傷口が塞がるまで安静にしている必要があるが、食事は許可されている。ただし、傷口である足の付け根を動かさないために体を起こすことができない。そのため食べ物を串で刺して口に運ぶことになっていたのだが、なんとその日の夕食はビーフシチューだった。ギャグじゃん、と思って笑ってしまった。食事を運んできた看護師も笑っていた。サラダのレタスなど食べられそうなものだけ食べて、残りは体を起こせるようになったら食べた。手術後の患者も同じ食事なんだ、と思った。

退院後

手術後の経過に問題がなかったため、入院16日目にめでたく退院となった。2週間もお世話になった看護師や看護助手のみなさんとのお別れは少しさみしかったし、さみしい気持ちが生まれるくらいにはよくしてもらったと感じた。

手術からしばらくは結果を正確に判断できないため、1ヶ月後に次の診察を受けた。血液検査と心電図検査を行ってから久しぶりに主治医の診察を受け、合併症が発生していないことや心電図に問題のないことを確認した。次に、手術の結果症状がどう変化したのか?を確認するためにホルター心電図検査が実施された。診療所を受診したときはホルター心電図検査の機器を取り外したその日の夜に電話があったが、今回は予約した診察の日まで特に連絡もなかったため、ひとまず安心した。

ホルター心電図検査の結果、カテーテルアブレーション治療で処置をした異常箇所のうち一つは期外収縮の発生が止まっており処置が成功したことが分かったが、もう一つは期外収縮を発生させていることが分かった。というのも、この一つは心臓の外側に位置しており、カテーテルアブレーション治療では効果が出るか分からないものだった。処置は試みたが、結果は失敗だったらしい。これを確実に処置したければ心臓の外側から焼く必要があるが、これは大変にリスクのある手術になるため、今の症状を見る限りリスクを上回る利益は得られないだろう、とのことだった。最終的に、これと手術中に発見できずにカテーテルアブレーション治療で処置ができなかった残り一つの異常箇所を含めても、引き続き投薬治療を続けていく方針で問題ないという判断になった。また、薬によって期外収縮の間隔を大きくできそうなので、薬の量を増やすことになった。そもそも期外収縮のなにが問題かというと、心臓の収縮が非常に短い間隔で連続して繰り返されることで、心臓が十分な血液を送り出せないことである。心臓が十分な血液を送り出せなければ脳に血液が回らなくなり、意識を失い、最悪の場合死に至る。収縮の間隔を大きくしてそういった状況を避けるため、十分効果のある量での薬の服薬を続ける必要がある。

おわりに

そういうわけで持病と薬が一つ増えたものの、命に別状はない。よかったですね。

ただ一つだけ、交感神経を高める作用が期外収縮を誘発してしまうためにストラテラをはじめとする ADHD の治療薬が禁止になってしまったことが、とにかく辛くてたまらない。日中は眠いし過集中はひどいし特に理由もなく気力がなくなることが増えた。どうしてそんなにピンポイントで相性の悪い病気にかかってしまったのかと、この世の不条理を感じつつ、今日も強く生きています。

おまけ

入院した次の週に行く予定だったライブに参加できなくなって悲しくなっている様子

病院の飯に感動している様子

手厚い保護の様子

健康意識を高めた様子

規則正しい音に喜んでいる様子

入院8日目にしてはじめて病院のベッドが動くことに気づいた様子

病院の安心感に気づいた様子

病院の動くベッドを欲しがっている様子

内視鏡検査を受けた

はじめに

ちょうど上京した頃から年に数回ほど、腹痛で救急車のお世話になっている。緊急搬送先での検査では異常が見つからず、痛みが落ち着くまで様子を見たのち家に帰されてきた。

人間の腹には様々な臓器が詰まっているため、今まで大丈夫だったから次も大丈夫とは限らない。この腹痛が致命的なのか否かの判断は素人には難しい。7119番に相談すると今すぐ救急車を呼べと言われるので、申し訳なく思いつつも毎回言われた通りにしていた。

緊急搬送先では概ね、すぐに対処が必要な病気かどうかの検査がされる。僕が理解している範囲だと、虫唾炎や急性膵炎などが疑われているようだった。幸いなことに重篤な病気が見つかったことはない。対応してくれた医師ら曰く、何らかの原因で腸の働きに異常があるのだろうとのことだった。それでも断定はできないので、後日病院で検査をするよう勧められていた。

ところで人間は愚かなので、痛みが引いてしまえば面倒な検査を積極的に受けることはない。ましてや腸の働きの異常が疑われる場合に行われる検査はいわゆる内視鏡検査である。とにかく苦痛だという噂しか聞かないのだから、尚更だった。

そんな愚かな人間を検査に向かわせるのは、もちろん痛みである。突然の吐き気と徐々に強くなる腹痛には、身に覚えがありすぎた。こんな時のために常備していた市販の抗コリン薬によって、この日は事なきを得た。

なんとか激痛を回避して事で気力が温存できたことで、ついに検査を受ける決心をした。

検査

最初に結果を言っておくと、炎症もポリープもがんも見つからなかった。検査自体も寝てる間に終わったので、痛かったのは鎮静剤の点滴の注射を刺す時だけだった。

検査を受ける決心をしてからもとにかく痛いのが嫌でインターネットでぐちぐちと騒いでいたところ、鎮静剤ありで検査を実施しているクリニックを探すといいですよ、と教えてもらった。探してみると「痛みの少ない内視鏡検査」を謳うクリニックはたくさん見つかった。良さげなところの予約をとり、診察をしてもらった。

医師に症状を話したところ、やはり内視鏡検査をして異常がないことを確認する必要があるとのことで、上部内視鏡検査(いわゆる胃カメラ)と下部内視鏡検査(いわゆる大腸カメラ)の予約をした。

数日前から食事を制限し、前日と当日朝に自宅で下剤を服用して検査に臨んだ。所要時間は上部内視鏡検査が10分程度、下部内視鏡検査が30分程度、とのことだった。検査の直前に鎮静剤が点滴で投与され、検査台に寝かされてすぐ意識がなくなったらしく、気づいたら検査が終わっていた。下部内視鏡検査の終わり頃にぼんやりと意識が戻り、「痛くないですか?」「婦人科の内診の方が痛いです……」といったやりとりをしたような気がする。婦人科の内診は本当に痛いです。

鎮静剤が抜けた後、その日のうちに医師から検査結果の説明を受けることができた。炎症や腫瘍はないが、胃にびらん(ポコってしたやつ)が見つかった。びらんは悪性のものではなさそうで、おそらく過敏性腸症候群だろう、と診断された。念の為びらんの生体検査が実施されて二週間ほど後に結果を聞きにいったところ、やはり問題はないとのことだった。

大きな病気が見つからず、過敏性腸症候群とはいえ慢性的な症状もないため、継続的な通院は発生しなかった。痛みは腸の痙攣によって引き起こされるとのことで、数回分の抗コリン薬を処方してもらった。痛くなり始めに服用するようにして、無くなったらまた貰いにいくことになった。

感想

結局、腹痛の発生自体をなくすことはできないらしい。ただ、今回の検査を決心したきっかけの腹痛も市販の抗コリン薬でかなり抑えられたので、処方された薬をうまく服用していけば救急車のお世話にならずに済むのではないかと思っている。

検査自体は噂より全然楽だった。なんなら鎮静剤の点滴の注射が一番怖かった。カメラを突っ込むのと並んで辛いと聞いていた下剤は、ポカリに塩を混ぜたみたいな味とレモンシロップに塩混ぜたみたいな味がした。味そのものより味の濃さと量が若干辛かったが、頑張れないほどではなかった。

おわりに

この記事を下書きに保存した2週間後にまた腹が痛くなりましたが、処方箋薬のおかげで事なきを得ました。良かったですね。

生活改善まとめ2021

はじめに

ADHD および ASD 由来の日常生活の難しさを改善するために今年やったことをまとめます。定型発達の幼稚園児レベルのことしか書きませんが、27歳会社員です。

今年やったことは以下の通りです:

  • ごみを散らかさない
  • 生活リズムを整える

同様のことでお悩みのみなさんの参考になれば幸いです。お悩みでないみなさんは、定型発達の幼稚園児レベルのことができずに精神科の診療を受けている人間がいることを覚えて帰ってください。

よろしくお願いします。

ごみを散らかさない

不衛生な話になりますが、僕はごみを捨てられません。今いる場所からごみ箱まで歩くことや分別の手間を嫌がるためです。机からごみ箱までの片道7歩を動けず、分別が必要なごみは床などに並べられています。

ごみを散らかさずに捨てるために、いくつかの取り組みをしました。

  • 家の中のよく居る場所にビニール袋の束を設置する
  • ラベルのないペットボトルを買う

分別や洗浄が必要なごみの問題は解決できていませんが、家で一番多い燃えるごみが散らからなくなりました。

ビニール袋の束を設置する

ごみ箱まで歩きたくないならごみ箱を増やせばいいので、ごみ箱を増やします。ただし袋だけを、ストックと一緒に設置することにしました。経験上、ごみ箱の袋を交換するのも新しい袋を取りに行くのも面倒になることが分かっているので。

ここで大事なことは、座って留まるような場所のすべてに袋の束を置くこと、手が届く場所に置くことです。僕の場合はこたつ(飯を食べてだらだらする場所)と机(ゲームと仕事をする場所)の座りながら手が届く場所に袋の束を設置しました。

この取り組みはかなり上手くいっており、ごみが発生したらすぐに袋に入れておけるようになりました。

袋は一杯になるまで置いておき、一杯になったら口を縛ってその辺に投げておきます。手が届く場所に置いてあると積み上げられてしまうので。できるだけ邪魔になるところに投げておき、立ち上がったついでに玄関まで運びます。外に出るついでにごみ捨て場まで運べば、ごみ捨てが完了します。おめでとうございます。

まとめると、以下のようにしています。

  • 家の中のよく居る場所にビニール袋の束を設置する
  • ごみが発生したら、ごみを袋に詰める
  • 袋が一杯になったら口を縛ってその辺(立ち上がった際に目に付く場所が望ましい)に投げておく
  • 立ち上がったついでに袋を玄関まで運ぶ
  • 出かけるついでに袋をごみ捨て場まで運ぶ

ラベルのないペットボトルを買う

ペットボトルには概ねラベルが付いていますが、通販ではラベルのないペットボトル飲料が販売されています。

LOHACO - ラベルレスの商品一覧|通販

試しに買ってみたところ、人間は工程が一つ減るだけでこんなにごみを捨てるようになるのか、と感動しました。全部これになればペットボトル完全攻略できます。メーカーのみなさん、よろしくお願いします。

生活リズムを整える

朝は起きられず夜は眠れず、やるべきことには手を付けられないのに気になることは何時間も続けてしまうので、生活リズムは常に崩壊しています。リズムの狂った生活はかなりの気力を消耗するので、元気に暮らすために生活リズムを整えることにしました。なお、「ご飯を毎日食べる(時間はなるべく揃える)」「やる気を出さなくても歯磨きをする」くらいのことを目標にしています。

完全攻略には至っていませんが、うまくいっている取り組みをいくつか書きます。

  • 1日のスケジュールをあらかじめ決めておく
  • 朝ごはんは保存ができるものを少量摂取する

1日のスケジュールをあらかじめ決めておく

人間は何かを決めるためにエネルギーを使う一方で、習慣づいた活動は簡単に行うことができます。僕には生活上の習慣がほとんどないため、毎日その日に何をしなければいけないか決める必要がありました。

そこで、1日のスケジュールをあらかじめ決めておき、それを守ることで生活の習慣づくりをしました。

1日のスケジュールは、次の点に注意して作ります。

  • 1日のスケジュールは考えるだけでなく、紙に書き出す
  • 細かすぎるスケジュールを作らない
  • 無理だと思ったらすぐにスケジュールを変更する

スケジュールは必ず紙(もしくは電子媒体)に書き出します。間違っても頭の中で完成させようとしてはいけません。次の日には必ず忘れ、思い出すことに必死で生活はできません。

また、過剰に手順を守ろうとして固まってしまわないよう、細かすぎるスケジュールを作らないように気をつけます。起きる->着替える->カーテンを開ける…といった細かい手順ではなく、11時までに起き上がって朝食と食器の片付けを済ませる…くらいの粒度でスケジュールを作ります。

これが一番大事なことですが、無理のないスケジュールを作るようにします。実際にやってみて厳しいと思ったら、一度決めたものでも変更できるようにします。目標は生活をやることで、決めたことを守ることではないので。これにより、決めたことは守らなければという意識が減って「歯磨きをするのが1時間遅れたけど歯磨き自体はやったから予定は遂行できたな」と考えられるようになりました。予定遂行の判定がゆるくなったおかげで、実際にやれることも増えたように思います。

決められたスケジュール通りに行動するなんて無理だと思っていましたが、案外うまくやれています。夕方から就寝まではそれなりにスケジュール通りに過ごせていますし、生活を面倒に思うことも減りました。また、夜眠るまでやるべきことが決まっているので、そのうち一つでもできれば「今日やることのうち〇〇ができた、〇〇ができなかったから明日はやろう」と考えられるようになりました。以前はその日の生活のゴールが分かっておらず、できなかったことだけを考えて焦燥感を募らせていました。その日やることが一覧できるようになり、無限のできなかったことよりもできたことに意識を向けられるようになりました。

朝ごはんは保存ができるものを少量摂取する

在宅勤務になってから食事が疎かになり、生活リズムの崩壊に拍車をかけていました。食事を先延ばしにしてお腹が空いたまま過ごして「何か食べなければ、食べるものを決めなければ」という意識で頭がいっぱいになり、夕方過ぎまで何もできない、といった具合です。そういう日は結局何も食べずに水だけ飲んで過ごしていました。

そこで、起床直後でも用意ができて消化しやすく保存がきく飲食物をいくつか常備するようにしました。いずれも常温保存が可能で、食べきりサイズです。

僕は毎日同じものを食べ続けられないタイプの人間なので、食べられそうなものを一つ選んで朝食にしています。毎日朝ごはんを食べると「朝イチのやるべきことをやったのでえらい」といった気持ちになれるのでおすすめです。特に、食欲がなくて固形物がどうしても食べられない日でも朝食ノルマが達成できる豆乳がおすすめです。野菜ジュースでも良さそうです。

おわりに

書いてて「なんでこんな当たり前のことをやるための tips で3000文字も書けるんだろう」という気持ちになりましたが(この記事は3000文字くらいです)、実際は当たり前にやれることではないので、毎日3000文字分くらい頑張って生きています。助けて。

会社を辞めたい気がしてきた

はじめに

こういうのは転職活動に精を出して、内定の一つや二つを獲得してから書くものだと思うんだけど、感情の整理のために書いてみたら止まらなくなってしまったので、供養しておこうと思います。

なんで辞めたいの

ふつうの人とふつうに働くことが無理になった。日に日に不満は溜まるばかりで、机に向かってもアラートをだらだら眺めるだけのことが増えた。いや、白状してしまうと、机に向かっても何もできない日が増えた。

上司には「期待していた仕事の量がこなせていない」と言われた。僕もそう思う。お前らのせいじゃろがい、とも思ったけど、環境を変えようとしなかった僕が悪い。

精神科の担当医には「環境に合わせるのは処世術として有効だと思います。自分や環境を変えようと頑張るのもいいけど、あなたに合った環境を探す方がおすすめです」と言われた。診察室で泣き出すところだった。僕は権威に従順なので、医者の言うことは素直に聞くことにした。

なにが不満なの

現状への不満は大きく分けて3つある。

一つ目は、尊敬できるエンジニアがいないこと。業務上関わりのある周囲のエンジニアの中で、技術力をはじめとるする様々な能力やイデオロギーについて、参考にしたいとか、自分もこうなりたいとか、そういう感情を向けられる人を見つけることができなかった。周囲のエンジニアは決して仕事ができない人たちではないし、うちの会社で仕事を滞りなく進行させるという点では、僕の5000兆倍優れていると思う。ただ、僕の感性に刺さらなかったのか、僕の力量不足で彼らの実力を理解できなかったのか、何にせよ、周りの誰も尊敬することができなかった。

二つ目は、頻繁にコミュニケーションが要求されること。コミュニケーション以外の良い方法がいくらでもあるのに、何でもコミュニケーションで解決しようとすることに辟易した。進捗が悪ければコミュニケーション、情報共有のためにコミュニケーション、分からないことがあるのでコミュニケーション。僕はコミュニケーションが壊滅的に苦手なので、とてつもなく苦痛だった。上司や同僚からコミュニケーションに問題があると指摘されたことは数しれない。なので、コミュニケーションの代わりに仕組みで解決しようとか、なるべく文書でやりとりをしようとしたけど、それは受け入れてもらえなかった。

三つ目は、責任の所在が曖昧なこと。責任の範囲を線引きするのが難しいということは理解している。それでも、追求されている責任が自分の裁量や作業結果と比べて適切でないと感じたり、チーム全体で協力して責任を持ちましょうという姿勢を提示されたことで、そもそもこの人たちは(悪意がないにしても)責任の所在を曖昧にしたいのではないか?という疑問を抱いた。僕は要領がとんでもなく悪く、人の仕事に気を配ったり人から気を配られたりすることができない。なので、自分以外の仕事にも気を配らなければならないような、責任を共有してものごとを進めるやり方は苦痛だった。自分が決めたことや自分がやった仕事の結果だけにきっちり責任を取りたいという考え方は、受け入れてもらえそうになかった。

なんで辞めたいの(2回目)

僕はできないことが壊滅的にできない。会社員になってからできないことを突きつけられることが多すぎて、もはや自分は何もできないのではないか、という疑念すらある。できないことをやるのは苦痛だし、できないことをやっているので、評価が上がることもない。

上司たちには、苦手なのは分かったから少しでも克服するように頑張ってほしいと言われてきた。しかし、僕の場合、上で挙げたようなコミュニケーションや要領の問題は、頑張ったからといって克服できるものではない*1発達障害について説明することも考えたけれど、上司たちは苦手なことを克服するという方法を提案してきたわけなので、我慢して合わせろと言われるのがオチだと諦めている。説明することを諦める決定をしたのは僕なので、僕が苦痛であることについて、上司や同僚たちに責任はない。

そんなわけで、担当医にも推奨されたので、会社を辞める方向性でやっていくことにした。

辞めてどうしたいの

まだ辞めてないしまだ決めてないです。職場の紹介は募集中ですが、元気がないので逐次処理にて承っています。これまで書いたとおり、コミュニケーションが壊滅的で要領がとんでもなく悪いですが、それでもよければ、ご連絡ください。

業務経歴は以下になります*2

研修後に配属されたのはビックデータを利用したシステムの開発チームでした。チームでは機械学習モデルの開発とかもやっていましたが、僕はデータの調査のために HiveQL を書いたり、システムを動かすための環境構築をやっていました。

その後チームの異動があり、異動先のチームの事情で半年ほど React/Redux での Web フロントエンド開発をしている現場で出稼ぎをしていました。ちなみにそれまで、React/Redux が何なのかすら分かっていませんでした。

出稼ぎが終わってからは、チームが担当するサービスの Web アプリケーション部分の運用業務を主に行っていました。メンバーの退社や異動などのために、いつの間にかアプリケーションに何かあったら何でもやる担当になっていました。担当する Web アプリケーションは node.js とか React/Redux で書かれていました。エラーの原因調査とか、リリース作業とか、定型業務とか、社内基盤の変更に伴う開発を行っていました。

半年でチームの異動があり、担当するサービスは変わらずに業務範囲が広がりました。

現在もこのチームで働いています。業務内容は Web アプリケーション部分の運用を引き続き行いつつ、裏のシステム(こういう言い方しかできない)の開発も行っています。裏のシステムは全然分からないし詳しい人がいるので、運用は丸投げしています。最近は要件定義をしたり、運用改善の提案や実行をしています。

おわりに

仕事を探していると言いながらできないことばかり並べるのは印象が最悪な気がしてきたけど、まあいいか。

そんな感じです。

ソフトウェアエンジニアになるまでの話

はじめに

note.com

こちらのブログを読んで、人生を振り返りたくなったので書きます。

人の体験記には一定の価値があることが知られています。僕も人生で不安になったときは Web で同様の体験をした人々のブログを読み漁ってきました。

僕は女性エンジニアという文脈では比較的悩み無く、敷かれたレールにのんびり揺られてソフトウェアエンジニアになりました。これまでジェンダーを理由につらい思いや障害を感じたことはほとんどありません。平坦な道のりでソフトウェアエンジニアになった女性のサンプルですが、平坦な道のりを歩む誰かのために、記録を残そうと思います。

書いた人

都内の IT 企業でソフトウェアエンジニアをしています。大学院の修士課程(情報工学)を修了した後、新卒入社した会社でずっと働いており、今年で3年目になります。

仕事はだいたい Web アプリケーションの開発・運用周りを全部いい感じにやっています。働き始めてからできるようになったことは、HiveQL でのビックデータ集計、node.js・React/Redux でのアプリケーション開発、TypeScript でのプログラミング、雑用、などです。働く前からできることは、少し古い HTML と CSS での Web フロントエンド開発、C#C++ でのプログラミング(ほぼ忘れた) 、CentOS での Web サーバの構築と管理、PHPPythonRuby でのアプリケーション開発、Docker の操作、DNS サーバの構築、日本語の読み書き、などです。

触ればだいたい興味が湧いては消えてしまうのでこれといって得意なことがありませんが、とりあえずクビにならずにちょっとずつ昇給しています。最近は、きれいなコードと非同期コミュニケーションに執着しています。夜には眠れず、朝には起きれませんが、生きています。お仕事の紹介はいつでも歓迎しています。

それでは、よろしくお願いします。

未就学児時代

福島県の、最寄り駅まで車で30分かかる田舎で生まれ育ちました。

小さい頃は特撮が好きでした。ウルトラマンのTシャツを着てめちゃくちゃ笑顔で写った写真が実家の居間に飾ってありました。ティガとダイナを観ていたことを覚えています。また、モスラを異常に気に入っており、映画のパンフレットを枕元に置いて眠っていたことも覚えています。

それとは別におジャ魔女どれみが好きで、絵をかくのが好きで、花が好きでした。将来の夢はお花屋さんでした。その後、早起きが無理という理由で、花屋の夢は諦めました。

義務教育時代

父親がある日、パソコンを買ってきました。Windows 98 が入っていたと思います。

ここで、父親の話をしておきます。父親は車の整備士で、つまるところエンジニアでした。車がとにかく好きで、家にはよく分からんパーツが届いたり、工具がたくさんありました(ほとんどは職場に置いているようでしたが)。新しいものが好きで、電動キックボードに乗って小学校に迎えに来たこともありました。爪の間はエンジンオイルがこべりついて真っ黒で、仕事の愚痴を一切言わない人でした。好きなもので仕事をして、稼ぎもそこそこに良く、楽しそうに生きる父親は、自分の人生にそこそこ大きい影響を与えたように思います。

ところでそのパソコンは子供も使うことができ、小学生の頃はペイトソフトで絵をかきまくっていました。たまにインターネットも見ていました。よく変なサイトを踏んでウイルスに感染させ、修理に出していました。父親にはそのことをあまり咎められず、カスペルスキーか何かのセキュリティソフトが導入されました。

相変わらず絵とパソコンが好きだった中学生の頃に、インターネットではブログとかホームページとかが流行りました。

とにかく流行っていたので、自分もブログを作って、日記や好きなバンドのことを書いていました。ゲームが好きだったので、特に好きだった塊魂の攻略掲示板に入り浸り、攻略情報の収集のために他のユーザと交流していました。絵が好きだったので、絵を載せるホームページを作りました。Yahoo! ジオシティーズをしばらく使ってから、FC2 ホームページに移行しました。HTML や CSSJavascriptCGI はこの頃に覚えました。絵よりも HTML や CSS を書く方が楽しくなってしまい、友人のホームページのコーディングをしたり、ホームページ用のテンプレートを作って載せたりしていました。

そんな折、プログラミングというものを人に教わる機会が訪れました。

地元には高等専門学校高専)というもがあります*1高専では公開講座という、地域の小中学生むけに専門科目を教えるイベントを開催しています。公開講座ではロボット制作や環境調査などをやっていますが、その一つにプログラミングがありました。Javascript を書くことがプログラミングと呼ばれる行為であることは知っていたので、中学校の掲示板に貼ってあったプログラミングの公開講座に興味を持ち、受講しました。

その後、なんやかんやあって高専プロコン*2の競技部門に中学生特別枠みたなの作ってもらって出場したり、自分用のパソコンを買ってもらって家でプログラミングをするようになりました。

また、高専というものに興味をもち、情報工学科ってやつに入りたいと思いましたが、地元の高専にはそういう学科がありませんでした。隣の県の高専には情報工学科があることが分かったので受験しようとしましたが、通っていた中学校からの入学実績が無いことを理由に、担任から受験を止められてしまいました。諦めなければよかったのですが、受験の不安が勝ってしまい、仕方なく地元の高専の電気工学科に進学しました。一応、カリキュラム上はプログラミングを勉強できることになっていました。

高専時代

こうして若干の不満を持ちつつ高専の電気工学科に進学しました。そしてこれ以降、ジェンダー比の狂った世界で暮らしていくことになります。

ここで、入学した高専の当時のジェンダー比について触れておきます。入学時は40人くらいのクラスに自分含めて女性は3人で、学科の先生たちに女性はいませんでした。色々あって女性が得意ではなかったし、いわゆる男の子みたいな趣味が多かったので、男性ばかりの生活に抵抗や苦痛を感じたことはありませんでした。

学生や先生はみな良識的で、むしろ女性であることで丁寧に扱われていたように思います。セクハラに遭ったこともありません。女性だけを丁寧に扱うことは問題を孕んでいますが、ここでは詳しく話しません。とにかく、女性であることで不利益を被ったことは一度もありませんでした。

勉強の話に戻ります。5年生までのカリキュラムでプログラミングの授業はごくわずかでした。悪く言えば期待外れでしたが、何かを学ぶこと自体は好きなので、電気工学のことも好きになれました。特に半導体電磁気学が好きでした。実験で一番楽しかったのは、電線を通したマネキンに雷を落としたことです。

プログラミングは主に部活動で続けていて、高専プロコンに出場したり、ものを作ったりしていました。高専プロコンについては色々と思うところがあるのでお気持ち表明は省略しますが、うちはいわゆる弱小校だったと思います。僕の在学中、競技部門で勝ち進むことはなかったし、課題・自由部門では賞を取れないことはもちろん、予選を通過できないこともありました。ただ、ものを作るのは楽しくて、部活のみんなでゲームを作って文化祭で売ったことはよく覚えています。高専プロコンの参加賞か何かでもらったさくらの VPS で、はじめて Windows 以外の OS を触って、コンソール画面を叩いて、Web サーバを構築したりしました。

プログラミングは好きだし楽しいものでしたが、進路につていは悩みました。きっちり組まれたカリキュラムでプログラミングやソフトウェアの勉強をしていない分、同世代の高専生との知識や技術の差から苦しい思いをすることが多くありました。プログラミングという活動で名前のついた成果を得られなかったこともあり、プログラミングをやっていく自信がなかったため、進路を電気工学方面にするか、情報工学方面にするか、悩みました。

情報工学方面に進もう、と決めたのは4年生のときに参加したインターンシップがきっかけでした。Twitter での交流がきっかけで jig.jp*3 という社長から社員まで高専卒ばかりの IT 企業のインターンシップに参加し、とても良い体験をしました。そこで、ソフトウェアエンジニアになろう、そのために大学で勉強しよう、と決意しました。

試験勉強という活動がとても苦手だったので、編入試験には苦労しました*4。なんやかんやあって、福岡の大学の情報工学部に進学しました。

大学時代の授業と研究

そういうわけで、計算機科学や情報工学の知識のなさへのコンプレックスを解消するため、大学の情報工学部に進学しました。

これまでもずっとそうでしたが、学校の勉強という形式を好きにはなれませんでした。これは大学でも同じで、成績のために努力することができず、好きなことを好きなように勉強するために学校制度を利用できればいい、という考え方でした。また、人に教わったり要領よくものごとを進めるのが下手くそでした。したがって、GPA もあまり良くありませんでした。奨学金の免除審査にも落ちました。

成果のために努力できず、好きなことを好きなように、つまみ食いするような姿勢は研究にも表れていて、特別大きな成果を挙げることもありませんでした。

研究の成果という面では後悔だらけですが、研究そのものは好きだし、楽しいという気持ちが十分にありました。今でも、修論のテーマを使って自由研究をしています。

大学生活における後悔は自分の性質への理解が足りないことにも起因するので、自分のことをあまり責めすぎずに、無事に修了できたことを喜ぼうと思っています。修士号情報工学)、便利なので。

大学時代に出会った人間たち

大学には編入生のコミュニティが形成されており、入学前に編入生向けの説明会を自主的に開催していました。これはとても良い活動で、このコミュニティがきっかけで、福岡に引っ越した次の日くらいには地域のエンジニアのコミュニティにつながりができました。よく知らない土地で、引っ越した次の日に電車で1時間の場所まで勉強会に参加しに行った自分の行動力は褒めて良いと思います。

エンジニアのコミュニティでのつながりは大学生活にも影響して、そこで知り合った大学の先生と先輩の研究室に入ったり、バイト先やインターンシップ先を決めたりしました。

とくに研究室の先輩たちとは夜中の2時まで技術や人生の話で盛り上がったりしていて、そういう話がたくさんできる友達ができて嬉しかったのを覚えています。また、Web サーバの運用で分からないことを教えてもらうとか、CTF に連れて行かれるとか、プログラミングができるバイト先を紹介してもらうとか、とにかく色々な経験ができました。

高専時代には、自分と同じかそれ以上の熱意でプログラミングをやっている生身の友達が近くにいませんでした。インターネット上には存在しましたが、インターネット越しで受ける影響には限界がありました。大学に入ってそういう生身の人間と関われたことで、ソフトウェアエンジニアとして大きく成長できたと思います。

就活

修士を修了したら就職するというのが進路の第一候補だったので、就活をしました。

僕の就活については以前ブログを書きましたが*5、要約するとインターンシップに行った会社の面接を受けて内定がもらえたのでそのまま受諾しました。人間が一番集まる場所で働くのが良かろうと思い、東京で勤務することを想定しました。

いくつかの会社でソフトウェアエンジニアとしてアルバイトをして金銭を得ていたことや、同世代の人間は(技術で)意外と倒せそうだという謎の自信から、かなり楽観的に就活をしていました。結果として受けた3社のうち1社からしか内定はもらえなかったのでそう甘くもなかったとは思いますが、その辺の感情は若さだと思います。

また、絶対書類で落ちると思っていた、採用面接がめちゃくちゃに難関だという会社の最終面接までは残ったことは、少しだけ人生の励みになりました。

業務の様子

感情を挟むと健康を損なった話をしなければならないので、割愛します*6

ここでは、感情を無にしてやったことを淡々と書き出します。

研修後に配属されたのはビックデータを利用したシステムの開発チームでした。チームでは機械学習モデルの開発とかもやっていましたが、僕はデータの調査のために HiveQL を書いたり、システムを動かすための環境構築をやっていました。弊社での仕事の割り当て方は上司によって異なりますが、自分の観測範囲だと、モチベーションベースで割り当てている上司が多いように思います。

学生時代は機械学習という手法で実現できるシステムに興味を持っていましたが、統計学、つまり数学をあまり好きになれなかったこともあり、入社する頃には興味を失いつつありました。それもあって、このチームの仕事で何がやりたいかと聞かれてもイマイチ答えられず、特にこれといって自信のある分野も無かったので、その手の質問にはうまく回答できませんでした。

そういう姿勢のためか、他人が興味のない余った仕事を黙々と取っていく、というスタイルが現在まで続いています。

その後チームの異動があり、異動先のチームの事情で半年ほど React/Redux での Web フロントエンド開発をしている現場で出稼ぎをしていました。ちなみにそれまで、React/Redux が何なのかすら分かっていませんでした。それでも仕事は降ってくるので、勉強しながら開発をしていました。開発しなければならない機能が次々と上から降ってくるので、仕事の割り当て方やコミュニケーションはとても機械的でした。自分にはそれがやりやすく、周りからはよく働いてくれるて助かる、と評価されました。

出稼ぎが終わってからは、チームが担当するサービスの Web アプリケーション部分の運用業務を主に行っていました。メンバーの退社や異動などのために、いつの間にかアプリケーションに何かあったら何でもやる担当になっていました。担当する Web アプリケーションは node.js とか React/Redux で書かれていました。エラーの原因調査とか、リリース作業とか、定型業務とか、社内基盤の変更に伴う開発を行っていました。上司は放任主義で、成果さえあればよく、仕事はとてもやりやすかったです。

半年でチームの異動があり、担当するサービスは変わらずに業務範囲が広がりました。現在もこのチームで働いています。

業務内容は Web アプリケーション部分の運用を引き続き行いつつ、裏のシステム(こういう言い方しかできない)の開発も行っています。裏のシステムは全然分からないし詳しい人がいるので、運用は丸投げしています。最近は要件定義をしたり、運用改善の提案や実行をしています。

会社の雰囲気と福利厚生

業務の様子から負の感情がにじみ出てしまいましたが、会社自体はウルトラホワイト企業です。

入社してから残業しなければならない状況になったことは一度もありません。現在は COVID-19 の流行に影響を受けて、フルリモート勤務 OK でコアタイムなしのフルフレックス制を採用しています。この勤務体制は感染症の流行に関わらず、今後も続くようです。

会社の福利厚生を挙げればキリがないですが、女性エンジニアという文脈があるので、生理休暇制度について言及したいと思います。

生理休暇制度は月に1日有給休暇みたいなノリで雑に休める制度です。僕は生理のたびに腹が痛むし吐き気はするし気分は最悪になるタイプの人間なので、ほぼ毎月この制度を利用しています。生理休暇に限らず休暇制度は上司に報告して利用します。これまでの上司は全員男性ですが、休むなと言われたことも、生理について言及されたこともありません。また、明らかに体調不良で休む回数が多い自分に対して、会社の人間から直接何かを言われたことは一度もありません。

まとめ

これまで書いたとおり、順当に学校に通い、順当に就活をし、順当に就職し、色々ありつつもそれなりの賃金を得ています。僕はこれまでの人生でジェンダーを理由に不利益を被ったことは一度もなく、ジェンダー比の狂った世界にも慣れてしまったので、世の女性エンジニアもしくはエンジニアになりたい女性たちが感じているハードルには実感が薄いようにも思います。すみません、勉強不足です、すみません……。

そういうわけで女性エンジニアという文脈で役立つ情報はあまり無いような気がしますが、人生の振り返りを終わりたいと思います。

一人でもいいので、この振り返りが誰かの後押しになれば幸いです。

自宅にドラム式洗濯乾燥機を導入した

はじめに

前からずっと欲しがっていた洗濯乾燥機を買った。

ななめドラム洗濯乾燥機 NA-VX800BL/R | 商品一覧 | 洗濯機・衣類乾燥機 | Panasonic

家事がとにかく嫌いなので、よく洗濯物を溜め込んでいた。特に靴下とタオルを干すのが本当に面倒くさかった。 最近のドラム式洗濯機乾燥機はよく乾くし、洗濯物が傷んだり汚れ落ちが悪いといったこともないと聞いたので、導入することにした。

なにせ高いので買う決心がなかなかつかずに、ボーナスのタイミングを3回くらい見送った。直近のボーナスの調子が良くてお金に余裕ができたので、ようやく決心をつけた。

選び方

特に乾燥機能を頻繁に使うことを想定しているので、それを主眼に置いて機種選びをした。

乾燥機能にはいくつかの方式があるが、ヒートポンプ乾燥は比較的洗濯物が傷みづらいとされている。縦型洗濯乾燥機でヒートポンプ乾燥を採用しているものはないため、ドラム式洗濯乾燥機を探すことになった。

また、自宅でドラム式洗濯乾燥機を使っている人に使い心地やおすすめ機能を聞いて回ったところ液体洗剤・柔軟剤の自動投入機能は最高との情報を得られたので、これが搭載された機種を探した。

パナソニックのドラム式洗濯乾燥機の中に条件を満たす機種があり、条件外の機能も十分そうなので、それを買うことにした。

洗濯機の選び方全体については、このページを参考にした:

特に洗い方や乾かし方については、このページたちを参考にした:

購入時期

本当は9月ごろに購入する予定だった。ドラム式洗濯乾燥機の新モデルは例年10月ごろに発売されるため、9月ごろに現行モデルが値下げされることが多いらしいので。 しかし、今年は COVID-19 の流行によって様々な影響があったためか、9月に入る頃に現行モデルはすっかり売り切れてしまった。

新型を購入できるから、と言い訳し、泣きながらヨドバシカメラで新モデルの販売価格が30万円を下回るのを待って購入した。

よかった点

洗濯機に乾燥機能が追加されたことで、靴下のような細かい洗濯物を干す手間がなくなって最高になった。浴室に干して除湿機で乾かすよりもタオルがふかふかになるところもうれしい。

干すのが面倒で頻繁に洗えなかったシーツや掛け布団カバーのような大きな布を気軽に洗濯乾燥できるようになったことも良かった。洗濯表示ではタンブル乾燥禁止になっているが、実用上、縮みや傷みは全く気にならなかった。

液体洗剤・柔軟剤の自動投入機能は最高で、ボタンをぽちぽちするだけで洗濯乾燥が実行される体験は大変に良いものだった。こちらの機能をおすすめしてくれた皆さんありがとう…。

わるかった点

いくつかの洗濯コースでは液体洗剤や柔軟剤が自動投入されない。たとえばおうちクリーニングコース(手洗いコース相当)では、おしゃれ着用洗剤を手動投入することを想定して液体洗剤が自動投入されない。自宅ではすべての洗濯物に同じ液体洗剤を使っているので、僕の使い方としては、おうちクリーニングコースでも液体洗剤は自動投入してほしい。手持ちの衣服のほとんどが手洗いを要求するためおうちクリーニングコースは頻繁に利用しており、結構な頻度で便利機能の恩恵を受けられないのは不便に感じた。

また、これは家電に罪のないことだが、手持ちの衣服のほとんどの洗濯表示でタンブル乾燥が禁止されている。乾燥機能を使うことができないため、衣服を干す手間は撲滅できなかった。

おわりに

ドラム式洗濯乾燥機が搬入されてからしばらくは、勝手に乾燥される様があまりにも楽しくて家中の洗って乾かせる布を集めてひたすら洗濯乾燥機を回した。楽しかったです。

ストラテラを服用して4ヶ月くらいが経過した(安定版)

はじめに

前回: haneuma0628.hatenablog.jp

ADHD の治療としてストラテラの服用を始めていましたが、4ヶ月ほど服用して安定した効果が得られてきたので、感想を書いておきます。

服用

現在はストラテラの後発品である日医工のアトモキセチンカプセル40mg*1を毎日朝食後に服用しています。

感想

前回同様、以下の ADHD 由来の症状がどうなったか、みたいな観点で感想を書いていきます:

  • 日中の継続的な眠気
  • 無気力感
  • 集中力の欠如
  • 物事への取り掛かりの困難さ

服用から1ヶ月半頃までは、日中にひどい眠気を感じることはないもののぼんやり眠いので昼寝したい、という程度の症状がありました。最近は以前のような眠気の解消のための昼寝がほとんど無くなり、それほど眠気を感じない日も増えてきました。

起きてから寝るまで意識を保って生活できる日が増えたことは、無気力感の解消にも良い影響を与えています。眠くないので家事や朝に計画した通りの活動ができたりして成功体験を積み重ねることができ、何かをやりたいと考えて活動する時間が増えたように思います。実際、趣味の活動、特に読書と勉強の時間が増えました。

集中力や物事への取り掛かりは明確に改善されたと感じることが少ないですが、長めの時間をとっての読書や勉強、しばらくやっていなかった趣味、こたつ布団をクリーニングに出すことなどができるようになりました。また、何かに手を付けてすぐに飽きてしまっても、他のことをやればいいか、と考えて実際に他のことをやれるようになりました。これは薬の直接の効果というよりは、眠気や無気力感が改善されたことで、症状とうまく付き合う心構えができたのだと思います。

観察日記

余談ですが、通院のために症状の様子を記録しています。以前は文章で症状の様子を記録していましたが、図のような5段階評価を記録するようにしました。

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観察日記

主観的ではあるものの症状を量的に表したことと、表にして一覧性が向上したことで、症状の変化が分かりやすくなりました。

ストラテラの服用を始めてから日が経つにつれて、勤務日の気力のなさが目立つようになってきました。休暇日に十分楽しく過ごせるようになったことは喜ばしいですが、シンプルに仕事が楽しくないということを思い出してつらくなりました。やりがいってやつはどこにあるんですかね…。

おわりに

僕は担当医にストラテラ40mgで十分効果があると判断され、実際にいろいろな症状が改善して元気に暮らすことができています。これ以上薬増やすと副作用が強くなりすぎるとのことです。

相対的に ASD の症状である社会性のなさが目立ってつらくなったりしていますが、それはまた、追々やっていこうとおもいます。